ミラノの中心部、そう大聖堂(ドゥオーモ)から歩いて40分くらいだろうか。およそ3キロ、西の方面にボナロッティ広場があり、その一角に“憩いの家”はある。そう、かのジュゼッペ・ヴェルディの最後の傑作といわれている音楽家のための安らぎの家である。
最後の傑作といわれるだけあって、その歴史はヴェルディの晩年にはじまることになるから意外と浅く、イタリアに統一国家の生まれるそのあと、前世紀を迎える少しばかり前のことである。
しかしその誕生については、偶然の産物ともいえるようだ。ことの発端はヴェルディ自身があまり意図せずに土地を買ったことにはじまる。中心部よりさほど離れていないとはいうものの、当時ミラノを取り囲んでいたスペイン壁の外側は荒涼とした手つかずの土地がほとんどだった。
どういう理由であまり人々が見向きもしないような土地に手を出したのか今となっては皆目見当もつかない。ただ、天才だけに何らかの直感が働いたのかもしれない。
「どのようにすべきかあれこれ考えあぐねていてふいに妙案が浮かんだ。家をつくろう。年老いた音楽家が安心して余生をおくることのできる安楽の場を」天才作曲家のもうひとつの天分がそこにある。
本気でこのようなことを考えていたとはもちろん考え難いが、「作曲家としての名声など、わたしがこの世を去り20年ほどが過ぎてしまえばきれいさっぱり忘れ去られてしまうだろう」とそのような言葉さえ残している。
音楽など時とともに消え去るもの。それならばかたちとして残るものを自分の命があるうちにつくっておきたいというのがヴェルディの信条となった。
親交の深かったボイト兄弟(ヴェルディとタッグを組み、作曲家、台本作家として名を残したアッリーゴ、建築家としてこれを設計、建築の総指揮をとったカミッロ)はじめ周りの人たちに協力を仰ぎながらこれまでに例のないプロジェクト“憩いの家”は完成したのである。
1899年のことであった。
わたし自身、この“憩いの家”には幾度となく足を運んでいる。イタリアに渡ってきたのが1991年であるから、その後30年の間には数えきれないほどに。
音楽に携わる者にとってはまさに「楽聖の場」と言えよう。大作曲家の意思が今も尚息づいていることを考えれば当然かもしれない。またヴェルディのあとに続いた音楽家たちも畏敬の念をもちながらここを訪れては献奏している。
多くの客人(ヴェルディの招き)の過ごす場所にはいつ時も音楽が溢れていた。
それが突然のコロナの発症、感染拡大によりそこで暮らすご老人に会うことも、ともに音楽を聴き楽しむこともできなくなってしまった。ほぼ、毎月門をくぐっていた“憩いの家”に2020年になってからは足を踏み入れることができていない。
堂満尚樹(音楽ライター)
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